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中村彝について。 [中村彝について]


  日本の洋画家の中でも、その作品が国の重要文化財に指定されている数少ないひとりである中村彝は、1887年(明治20)7月3日、茨城県水戸市に生まれた。早くから父を亡くした彝は、陸軍軍人であった長男・直を父代わりに、軍人を目指して名古屋地方陸軍幼年学校を卒業、東京中央幼年学校に進学する。しかし、途中で肺結核と診断され、同校を中途退学。もともと絵に興味を持っていた彝は、小学校で知り合った野田半三の影響で、療養しながら絵を描くようになる。太平洋画会では頭山五郎、中原悌二郎、鶴田吾郎らと知り合い、本格的な画家をめざすことになる。
 1909年(明治42)の第3回文展で、『巌』と『曇り日』が入選し褒賞を受賞。翌年の文展では、『女』が3等賞に入選する。同年、中村彝は新宿中村屋裏のアトリエに引っ越し、画業に集中する。1914年(大正3)、相馬家(中村屋)の長女・俊子をモデルとした『少女裸像』、翌年には着衣の『少女』を描き、再び文展の3等賞に入選。このころから、彝は俊子に恋愛感情を持つが、両親の反対で中村屋のアトリエを追い出されてしまう。
  追い出された彝は、一時期は本郷の下宿ですごすが、1916年(大正5)に下落合へアトリエを建てて移転。以降、1924年(大正13)に亡くなるまで、このアトリエですごすことになる。中原悌二郎は、彝のアトリエを借りて、代表作である『若きカフカス人』(1919年・大正8)を完成。そして翌年、友人の鶴田吾郎が盲目の詩人で童話作家だったワシリー・エロシェンコを、目白駅でスカウトして彝のアトリエに連れてくる。偶然にも中村屋へ寄宿していたエロシェンコは、8日間にわたり彝のアトリエへ通う。こうして、中村彝『エロシェンコ氏の像』(東京国立近代美術館所蔵/国指定重要文化財)と、鶴田吾郎『盲目のエロシェンコ』(新宿中村屋所蔵)が完成する。ふたりの作品は、第2回帝展へ出品され、『エロシェンコ氏の像』は明治以降の油絵の肖像画中最高の傑作と賞賛され、鶴田も初入選を果たした。同作は、彝の支援者だった今村銀行の繁三が買い上げ、戦後は近美に収まることになる。
 
     中村彝『エロシェンコ氏の像』       鶴田吾郎『盲目のエロシェンコ』
 その後も、『田中館博士の肖像』、『老母像』、『髑髏を持てる自画像』、『目白風景』各作品など精力的に描きつづけるが、1924年(大正13)12月24日のクリスマスイヴに、喀血のため永眠。37歳の生涯だった。

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